昭和45年07月31日 朝の御理解
御理解 第99節
「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助から ぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」
無学で人は助からんということはない。とだからここで、無学のほうがかいて人が助けよいと、いう感じですね。わずかばかりの学問があったり、またはあつかりはなくてもまあ、学問を身に付ければつけるほど、そこへ様々なことがですね、いわゆる知識が豊富になる。物事の道理とか、一つの理論ですね。理論的なこと。いわゆる理路整然としたお話とか、でないと自分自身が合点がいかん。自分自身が合点がいっとらなければ、人にも伝えられない。いきなりなことは言われんということに、いわばなるわけです。
昨日、南八幡教会の松田先生から、今日の親先生、それからこの頃見えた若先生から、大変丁寧なお礼の葉書が参っておりました。ま本当に喜んでおられるというような感じでしたね。何とはなしに、こう合楽と一脈通じるところがあるんですね。それはその、どういうところかというと、あちらもやはり初代の先生が、まあ無学に近いお方であったようです。なら私も同じ。そういうところがですね、いわゆるいうなら教養がないと。特にあちらは初代が、いわゆる韓国の人です。ね。
ですからまあ言葉も、やはりこちらの日本人のようには、ちょっとやっぱ、おかしな所があったらしいですね。だから表現もやっぱり、難しかったじゃろとこう思います。その上、私は、そこんとこはようくは知りませんけれども、やはりま学問、いわゆる無学に近いお方じゃなかったかと想像されます。そういうところがね、私とよく似ておったのじゃないかと。丁度前の晩の、座談会のときに、あちらの若先生が、こういう事をまあ、言うております。
その前に、あちらの青年会長さんが、今度ここで、そういう会を持たせて頂くからというご挨拶に出て見えた時に、若先生がここのことを、少しでも分かっといて頂いたが良いからというので、あのうおかげの泉の第八集か、この前のものでね、今月のものです。それを一冊、これを読んどいて下さい、そすと大体合楽の信心は分かりますからと言うて、差し上げておった。それを読まれたことを話しておられるんですね。
あのおかげの泉を読ませて頂いておりますと、うちの初代のお話と、よう似とるというわけなんです。どういう所が似とるかち言うと、お話があちらに飛び、こちらに飛びしてるというわけです。まあこれは、お話が上手ではないという意味なんですよね、大体を言うたら。もう何を話しござるじゃら分からん。あの話しござるかと思や、この話しござると、いう意味なんです。
なるほど、私の話を皆さん聞かれると、ほんと山の話をしよるかと思うと、もう川の話をしとりますもんね。こらやっぱり、いやあその頭の問題。頭があんまり良くないから、なかなか整然としてそれを、まとめきらんのですね。お話を、今日はどういう筋の話をしよう、その筋を追うて、お話をするというようなことではなくて、一番最後に話さなければならんところを、一番初めに持ってきたり、ね。
最後に締めくくりの、お話に良い所を、初めに持ってきたり後ろに持ってきたり、中へ持ってきたりと言う様にです。あのおかげの泉を読ませて頂いておりますと、お話があちらこちらに飛んで私のほうの昔、いわゆる初代の先生のお話に良く似ておると、こういわれるの聞いて、いや私もちょっと、こう考えなければいけないなと。いわゆる整然とお話が出来るようにならなきゃいけないなと、まあ反省して、二、三の方達に、私の話はそんなに聞きにくいかなと言うて、ま聞いたぐらいでしたがね。
もうそういう意味で似てるわけなんです。言うなら無学の程度がよく似てると言う事なんですよね。所がどうしてどうして、ね。いわゆる当時は朝鮮人と言うて軽視したんですよねえ。けれどもそこに人がどんどん助 かるもんですから、朝鮮人もなからなければ、日本人もない、人の助かるところへ言うならば、甘いもののところにどこから集まってくるか分からんように、蟻が集まって来る様に沢山人が集まってきた。ね。
南八幡の場合ですですからこ事同じように、非常にその教会になるまでの苦労が、色々あった模様ですね。そう言う事もやっぱり似通っておる。ね。問題は人が助かるんです。先日御本部の学院にいっとる人から、あれは何とかという御本部に元朝鮮のあのう、御本部のご飯炊きをしておられた所謂ボーイさんです。やっぱり韓国人の方なんです。その方は金光様からですね、金光の姓のお書き下げを頂かれたちいう人です。
だから御本部には金光様が何人でんおるという、まあその相当軽蔑した言葉で申しておりますし所がね、最近ではそこに沢山の人が集まる様になった。新聞まで出ておる。その、新聞を、先日送ってきました。ね。そらやっぱりまあだ本当にそのう奥様は日本人、子供さんが学院をご卒業されて、教師の資格を取られたと言う様な、まあ状態であります。ね。お話もいうならほんろくそうに出来なさるも様じゃないですけれども。
人がどんどん助かる。御本部参拝をするというけれども、そこに参る事を楽しみに参る人達すらがあるくらいらしいです。ね。確かに無学で人が助けられんと言う事はない、いや、むしろ、ね。学が身を食うということになると、むしろ、学問がないほうが人が助かるということになる。此の方は無学でも、みなおかげを受けておるということになるのです。ね。私共の場合もそうです。
ほんとに神様から色々とお知らせを頂きましてもね、難しい事でありますと、中々意味が分からん。私がもう少し勉強でもしとったらもっと、合楽の御理解が素晴らしゅうなろうと思うくらい。ね。所が私はその無学である事が却って、ほんならここで人が助かることの、元になっておると言う事も否めない訳なんです。ですからここで学問をしてはいけんというのじゃなくて、その学問が、より良い人が助かる事の為に。
ギョウシ凝視されるというかね。学が身を食う様な事ではない、おかげになって来りゃ、そりゃ学問をしておった、学問をしておる方に越したことは(やっぱ?)ないわけです。今日私はねこの最後の、学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でもみなおかげを受けておる。と言う所を一つ聞いて頂きたいと思います。学問があっても難儀をしておる。いや学問があるから難儀をしておる。
ちっとばっかり弁が立つ、ちっとばっかり、ものの道理が人よりも分かる、から難儀をしておるということ。神様がおかげを下さると言う事は、そりゃほんとに微妙な事ですからねえ。どんなに筋道立てて、あら「あんた道が間違うとらせんな、ね。そういう事じゃあんた助からんばいと言うて、その人が助かる事じゃない」、自分自身が助からなければならんのに。例えその人が道を間違えとっても、こっちが間違えなかったらいいんです。そして、間違うとると思うたら、黙って祈ってやったら良い。
そこには、自分自身の助かりもありゃ、その人も助かる。そこの辺がね、私は微妙だと思う。あんた道を間違えとらせんかそれは。と言うて如何にこちらもいわば、間違いムカッとしとるわけですよね。道を間違えとるから。だからそういう風にいう。あんた道間違えとらせんか、と言うてそれを教えてやる。あぁほんとそうでしたと言うて、まあ相手が分かってもです、こちらが助かっとる訳です。それがほんとの助かりにゃならん。本当の助かりというのは、神様が助けて下されなければ、助かりにはならん。
それに例えばほんなら相手が道を間違えておってもですよ、ね。例えばほんなら親子の問題で、言うならば、子供が、ほんなら親を大事にしない。あんた道を間違えとらせんか。子供のくせになんと言いよるかと言うて、子供に教えた所でです。はあそらそうですねお父さんと分かってくれりゃまだいいけれども。もうそげなこつ言うたっちゃ、もう古かち言うたら、もうそれまででしょう。ね。
それよりか親父自身がいわば、助かっておればです子供がたとえ、道を間違えて親不孝致しましてもですよ。ね。それを親はその事によって親が助かっていく。ね。そこから不思議に、その子供も助かって行く様な働きが生まれてくるのが、私は神の働きであり神様のおかげ。そこが微妙だというのです。ね。ですから却って道を知っておると、その道を教えんなんごつなる。教えたけん相手が助かるかりゃ良いが助からん。ね。
道を知らんなぁんも分からん無学の百姓と、教祖様はご自分で仰っておられる。私共も、なかにも知らない、いうなら無学の商人であった。こら私の場合です。ね。学問があっても難儀をしておる者がある。いやあ学問があるから難儀をしておると、言う事にそこん所を頂いたらですね。学問が愈々身を食うておる事になるのです。少しばかりの知識が、ね。人の間違いばかりが気が付くことになるのです。ね。
何も知らなかったら、人の間違いすらも気が付かん。私はこの辺の所をですね、例えば、ほんならそれを知っておっても、ね。信心でそれこそそこを頂いていけれる、ね。理屈を言わんですむ、ね。道をいうなら、説かんですむ行きかたになりたい。道を説かんで道ということは、それこそ「道という言葉に迷うことなかれ、道は教えを踏むほかはない」と仰るようにです。
もう私共は私共がいう道というのは、天地につながる道さえ知っておきゃ、それで良い。それには、教祖様の教えてくださるそれを、踏み行うていく以外にゃない。そこの天地の大道に出ると、全ての道がはっきりして来るのだ。ね。此方は無学でもみなおかげを受けておる。南八幡の場合でも、いわゆる金光町におられる、名前を誰か太郎さんち付けておりましたねえ。だから太郎さん太郎さんち言うてこう、学院ではみんな呼んでそこの飯炊きよんなさっておられたんですからねえ。
ところが最近では人が助かって、いわゆる太郎先生になった。しかも金光様から金光の姓を名乗っても良いという、お書き下げまで頂いておられる。そりゃやっぱりそのがぎぐげごが言えないんですよね。今でもやっぱりそうらしいですよ。それでもうなんち言うかね、もう無邪気なんです。もう金光私はその場面にあった事はないけれども、みんなが申しますのにもう、金光様はお友達のようにしてお話されるそうです。
金光さまが。もう亡くなられた三代金光様の(ことなんですけれど?)。もう太郎さんが見えると、非常にもうそれこそもう、機嫌が良うなられる。そしてもうお友達のように話しておる。もう金光様今日はどうでした、ああでしたと言うて、今日の出来事まで色々話されると、金光様がそれにいちいち、がてんしてからお話の相手をなさるち言うことです。ね。純真無垢とでも申しましょうか、ね。
そういうところにやはり神様の特別のおかげを受けられる元が有ったのじゃないでしょうかね。今はもう大したことらしいです。いわゆる無学でも人が助からんことはないという一つの印のようなもの。それをそんなら少し学問が有る人はです馬鹿にして、ね。それを変なふうに申しております。おかしいと言うて。ね。此方は人が助かる事さえ出来ればというのが、金光教の信心のまあいうなら、まあ生命ですからねえ。
人が助かる事さえ出きれば良いち言うのである。ね。だから馬鹿といわれても、ちょいと言われてもです、ね。その人を中心に人が助かるほどしのおかげを受けると言う事。それにはね、私はどう言う所が素晴らしいかというと、純真無垢と言う事は、どう言う事かというと非常にその、ね。思い変えが良いのじゃないかと思います。教祖様も非常にこの、思い変えの名人でおありになったと言うて良いですね。
二人のお子さんが病気をされる。養生の甲斐もなく、一人が亡くなられる。と言うてもです。一人が亡くなられたのは、自分の信心の不行き届きとして、神様にお詫びをし、助かったのは、神様のおかげでと言うて、お礼のお祭りまでなさっておられると言う様にです。思い変えが良い。これだけ一生懸命御願いして、とうとう死んでしもうたなんて思うちゃないん、それがもうあらゆる、教祖様ご自身のいわゆる。
まだ百姓文治と仰っておられるころからの、そのご生活の状態というものを、分からせていただくと、分らせて頂くほど、素晴らしい、思い変えの名人でおありになったと。言うならば全てのことを良いほうに、良いほうにお取りになったと。ね。有り難い方へ有り難い方へお取りになった。もう有難く取れることでも、ひと理屈言うてそれを有難くないものにする人がある。それは学が身を食うておる証拠。
少しばっかりの知識がいわば、その人を苦しめておるようなものですよね。そういうことになりますでしょう。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。教祖様はそういう、思い変えが素晴らしかったからなんです。教祖様ご自身がいつうもここに、わだかまりがない。何時も助かってござるということです。私は今朝からほんとに私皆さんにいつも申しますように、朝、四時の御祈念に出るまでの、しばらくの時間というものは、もう私にとって、一日で一番有難い時間だと思うくらい。
それがちょっとちょっとした事がですね、自分の心に沿わないことが次々と、こう朝の、たったわずかな時間に起きてくるんです。あすこを襖を開けて私を四時になったからと言うていつもあそこに、ま導いてもらう訳ですけれども、そこへもう襖を開けてもらっとるけれども、ちょっと立ち上がられないくらいにあったです。これを治めなければ。ハァーほんとに、私が有難い有難いというとるけれども。
実際はこれが私の正体だなあと、自分で思うた。ね。じっと濁った水がこう下へ汚いものが下がって、上澄みだけが澄んでいるようなものだと。ちょっと混ぜられたら、もうこんなに心が乱れたり、濁ったりしておるじゃないかと。そこんところをじっと私は、心へ押さえ押さえ、そこをもう御神前に出らなければならんのですけれども、そのまあ時間にしたら、五秒か十秒かだったでしょう。
そしたらですね、御心眼に砌(みぎり)という字をいただいた。砌お手紙手紙なんかに書きますね。何なんの砌とこういう。石偏にセツという切るという字が書いてある。ね。石を書いてね、こうしたに石を書いて切る、切断するの切ですよね。切るという字が書いてある。頂いた途端にですね私の心がスーッと、させていただいて御神前にまあ、何秒か、まあ遅れた感じでしたけれどね。御神前にでらせて頂いてやっぱり有難い。
御祈念をさせて頂く事が出けた。そして今日開かせて頂いたら、只今いわゆるこの九十九節を頂くのでございます。ね。少しばかりの知識とかね。そういうもいう字を頂いて思わせて頂いたことは、砌ということはその節言うことですね。その砌その節その時という意味なんです。その時その時ということになんです。いま御霊様にお花のお供えがあっておりますよね。あれはマーガレットという花ですよね。
私共はあれは除虫菊といいます。蚊取り線香の原料になる。ね。だそうです。除虫菊。除虫菊というのは、虫を除く菊と書いてある。例えばああして田園の手入れだけ致します。手入れだけというのは、のが邪魔をして心に引っ掛かっておる。例えばね私はその砌と手入れの中にはやはり消毒と言う事がいります。色んな虫がつきます。ですからその消毒をしよらないけません度々。そら何時もするもんじゃありません時々。
なるほどほんならつい、昨日までほんならここへ出てまいりましてから、私が有難かったと言うのは、だから嘘ではない確かに有難い。けれどもねちょうど今朝はね、消毒を除虫菊ですかね、虫を除かなければならない、そういう砌に当たっている。そういう時期に当たっておったと言う事になるのです。私共はね今日清めた、今日はもう有難い心の底から、清らかなものが湧いてくる。
だから、明日もそれに続くというわけじゃないのです。いつの間にかそれこそ毎日毎日、それこそ風呂に入らせて頂いて、毎日垢が出けておるのにたまがるように、心の上も同じこと。昨日磨いたけん、今日は磨かんで良かちいうこつは決してない。ね。それが貯まりたまって心の虫になる。ちょいとしたことが腹が立つ。ちょいとしたこつがムカッとする。というような虫になる。ね。心が乱れる。心が穏やかになれない虫が出来る。ですから時々いわば消毒をしなければならない。
ですから私共の心の中にです、ムカッとするような腹の立つようなことが、例えば起こったと致しますか。ははぁ今は丁度消毒をせなきゃいけないぞという、神様がお知らせを下さっておるんだなと思うたら、心が一遍にスキッとした。有難いですね。ね。それまでに私が思いよることは、はぁ自分の正体はこれが自分たい。このくらいのことを許せないということは、まなんと自分お心の狭い、心のこまい自分であろうか。
それまでは分かるんですよ。だが分かったことだけじゃん自分の心がこまい。はぁ自分はこのくらいのもんだと分かっただけじゃ治まらんの、心が。けれどもね今は丁度、消毒薬を散布しなければならない時期を今朝頂いとったんだと言う事になるんです。いわゆるさっきから申します思い変えなんです。それを私がもっとほんなら、学問でもあったらです。それをまあ理路整然とその事を、言葉にしてこう言う事ではいけんじゃないか、あれは、と言うたに違いありません。
そこには私も助からなければ、言われた者も助からないことになってくる。ね。道を教えるとか、言うて聞かせるとかって言うぐらいな事のね、もういちばんその愚かなことをね、一つ信心ということは知ること。言うて聞かせたぐらいで分かることなら良いけど、解らない事は幾ら言うて聞かせたって駄目です。ね。先ほど親子のことをもって、申しましたように、ね。親が子に言うて聞かせる。
はぁお父さん貴方が言いなさるとおりですなと言やいいけれども、それを実行しないいう事を聞かないとするならば、二人共助からんじゃないか。ね。それよりか、ね。自分自身が自分の心の中に思い変えをして、ね。こら子供じゃないと自分が思い変えをして改まっていく、おかげを頂きゃそこからね、神様が働いて下さる。その神様の微妙な働きをです。私共が一つ知らなければいけません。ね。
ですから少しばかりの勉強しておる知識とか、学問とかというものはねまあ(例え?)、金光様の信心するとき先ず一遍、ね。神様の前に投げ出してしまわなければいけないと。ね。いわば本当に無学の状態に成らして頂く事が、信心の一番大事な事だと思う。ね。そしてその無学でです言うならば思い変え。だからずっと新しい信心の知識を教えて頂くと、それを本当にそうだあと思うのです。私共は馬鹿んごとそれを思うです。
今朝からでも、その神様からその、砌という字を頂いてです、はあ砌という字は、石を切ると書いてある、心を切ると石とは心という意味でしょう。今思うとる心を切って退(の)かせと、こう言う事なんです。そういう事をおしえて下さる、丁度時期なんです。神様何時もがみがみ言いなさるわけじゃない。そういう一つのチャンスを捕まえてさ、今お前がいらいらしたり、もやもやしたり、こういう朝の大事な時間に、いらいらしておるということは。お前の中にそイライラがあるのだ。
丁度もうそういう虫がもう来とるのだから、こいつを消毒してやろうと言うて神様が、消毒をして下さって入る様なものだと、心に思い変えが出来たら、途端に心がスキッとした。ね。はぁ「これが自分の正体だと思うとるだけじゃ、スキッとせんでしょう」。それがね、私は無学のおかげでです、神様からそういう頂くとです。はぁ石を切れ心を切れと、神様の声を聞くように思うて、それをスキッときることが出来る。
ほんなら切ったからと言うて、もうこれで大丈夫ということはありません。また出来るでしょう。またその時はその時で神様が、また消毒をして下さっておる時期が来たなと思うて、消毒を受けたらいいのです。消毒を受けた後には所謂はがいさもない、腹立ちもない消えていくです。今日は学問があっても難儀をしておる者がある。といや学問をしておるからこそです、学問のない者が苦労しない様な事に、苦労しておると言う事なんです。此方は無学でも人が助かっておると、みなおかげを受けておると。
その此方教祖金光様の此方というのは、どういうお方であったかというと、素晴らしい純粋無垢な方であると同時に、思い変えの名人でおありになったということ。思いを変える。有難いほうへ有難いほうへと、思いを変えて行くことの名人でおありになったと。今日私の心の中にです。いらいらもやもやがあったけれどもです。それをそれを今日は、神様から消毒を受けておるんだと、ね。その心を除き切れと言うてござるんだと、「分からせて頂いたら、その事に、すっと思いが変えられた」。
思いが変えられたらやはり平生どおり、有難い思いで御神前に額ずく事が出来たということになるんです。ね。如何に御教えを頂いても、御教えを頂いてもです。はぁそうだと、思いを変えられなかったら助からんのですよ。先生はあげん言いなさるばってん、そんな訳にはいかんち言う。少しばかりの理屈やら学問やらが、そげなふうに出てくるわけです。はぁ先生が仰る通りだと、純粋な心でそれを受ける所から。
今までどうにも思うてなかった自分の胸の内、心の内がですすきっと、消毒を受けたあとのように、痒かったものが痒くなくなってくる。歯がゆかったものが、歯がゆなくなってくる。情けなかったものが、有難いものになってくる。そこで私共のいつもね、一日のうちにそういう一つのそういう砌があるように思いますね、お互いに。一日のうちに言うても、朝の有難さばっかりじゃない時が皆さんあるでしょうが。ね。
此方は無学でも、みなおかげを受けておる。此方は無学でも、みなおかげを受けておるという。此の方は無学でも自分自身が助かっておるという意味なんです。自分自身が、助かっておられるからこそ人を助ける事の働きが出来る。みなおかげを受けておるということになるのです。学が身を食うだから学が身を食うような学問は身に付けたら、人間は不幸になる。学問もやはり学徳という位なところまで高める学問。
いわば学がおかげを受けるための邪魔にならんような学でなからならんことを、なおさら一段とねここに一つ、分からせてもらわなければなりません。少うしばかりの、ね、なまじっかな学問がそらあんた、道を間違えとらせんかと言うて、自分も助かっとらん聞くほうも聞いたっちゃ助からないそれでは。むしろ、ね。道を知らぬほうがだから良いということになるのです。道を知るなら、ね。
天地の大道。天地の道を知る以外にはない。その道を知るためには、教祖様の御教えを行じていく、そこから自ずと天地の道は付いてくる。天地の大道がに出ることが出来たら、全ての道が明白になってくる。有難い意味においてはっきりして来る訳なんですよね。どうぞ一つ、ね。学はあっても、ね。助からない、ね。学はなくても、みなおかげを受けておると言う所に焦点を置いて、今日はお話をしましたね。
どうぞ。